境界線の向こう側、ヨルダン川西岸地区 パレスチナ
「観光客でもパスポートの提出を求められることがあるので、必ず携帯すること!」パレスチナ自治区内へのツアーに申し込む時に、そう念を押されたものの、エルサレム中心部から目と鼻の先にある検問所で、車中にチラリと目をやった警備員はすぐにゴーサインを出した。観光客ということで思いのほかあっさりと通されたが、つい先日、死海沿岸で気づかずに越していた境界線よりは、物々しい。
簡素なゲートを通り抜けると、吹きだまりに舞うゴミや、がれきが散乱する空き地が目にとまる。境界線を隔てただけのイスラエルと比べると格段に貧しい印象だ。見上げると、ラクダのこぶの様に連なる丘の向こう側には、イスラエル人入植地が真新しい砦のようにそびえ立つ。
パレスチナ側にあるベツレヘムは、カーブを描く坂道や階段に沿ってクリーム色の建物が並ぶ、趣きのある街だ。イスラエルより素朴に感じるのは、街の装飾がすくないからだろうか。ベツレヘムの丘の上に素っ気なく建つ生誕教会の地下の洞窟で、イエスは生まれたとされている。
現在のパレスチナはイスラム教徒が多数派なので意外に感じるかもしれないが、イエスが生まれた場所だけにキリスト教の関係史跡は多い。歴史的価値の割にはエルサレムの聖墳墓教会よりも人がまばらだ。「観光が重要な収入源なのに、パレスチナのニュースが流れるたびに、観光客が減って行くばかり」と、教会の外でガイドたちが嘆く。生誕教会の隣にあるカテリーナ教会の洞窟では、ヒエロニムスが聖書をラテン語に翻訳して、その後キリスト教が一気に広まった。カテリーナ教会のミサは、毎年クリスマスイブに全世界に中継されるので、見たことがある方もいるだろう。
スターバックスならぬ、「スターズ&バックス カフェ」の看板を横目に見ながら、坂道の多いベツレヘムの街をドライブしていると、突然、コンクリートの壁が現れる。イスラエルとパレスチナを隔てる分離壁だ。ねずみ色の壁に「この戦争を終わらせろ」、「平和を望む」、「壁をぶっ壊せ」などのメッセージが色鮮やかに浮かび上がる。怒りと絶望と希望が混ざったような、強い感情がストレートに胸に刺さる。現地で話されるアラビア語よりも、英語が多いことに驚いた。有名なアーティストの作品もあるため、最近では観光スポットのひとつになっているようだ。分離壁に限らず、パレスチナの街のあちこちでこうしたグラフィティを見かけた。ヘブライ語の商業用ポスターが並ぶイスラエルの街角とはずいぶんと様子が違う。
ベツレヘムにあるアイーダ難民キャンプを訪れた時も、街がキャンバスのようにカラフルで驚いた。こちらはNPO団体が雰囲気を明るくするために、意図的にポップな色やデザインを施しているのだそうだ。設立から70年近くたつ「キャンプ」は、一見するとどこかの下町のような住宅街で、あちこちで小さい子供たちが笑いながら無邪気にかけ抜ける。「私たちの世代は暴力に慣れてしまった。でも、子供たちにはそんな風になってほしくないんだ。」銃痕の残る学校の扉を前に、ガイドのモハネドさんは静かに言った。
ヘブロンの歴史的なアブラハム・モスクの建物には、シナゴーグが「同居」している。出入り口は建物の反対側にそれぞれ設けてあり、検問所を通らなければならない。ヘブロンでは、パレスチナ人の営む店の前をユダヤ正教徒の若者たちが通りかかると、外国人の私にすら緊張感が伝わる。けれども、モスクの中ではイスラム教徒の少年たちが絨毯に足を伸ばしてのんびりと語り合い、シナゴーグでは柔らかな光のもとでユダヤ教徒の青年たちが熱心に祈りを捧げていた。

アブラハム・モスクから少し離れたガラス工場では、体格の良い職人のオジさんがタバコをくわえながら、オレンジ色に燃え上がるガラスの塊をじっと見ていた。頃合いを見てサッと取り出すと同時に、タバコを指にはさみ、ガラスを吹く。一切無駄のない動きに、熟練した職人の技を感じる。古いガラスを集めて吹き直し、リサイクルしているのだそうだ。工場の奥では、6畳ほどの部屋に数人の職人が机を並べ、目にも留まらぬ早さと正確さで、陶器の絵付けを行っていた。無地のボウルやポットに施された淡い色は、鮮やかな赤、青、黄色に焼き上がる。直営店が併設されているので、お土産に可愛らしい小皿を3つ買い求めた。
「この辺りはブドウの名産地なんだよ」とモハネドさんは顔をゆるめる。ヘブロンからの帰り道、どこまでも続く青々とした畑には、テルアビブで食べた、弾けるように美味しいブドウがたわわに実っていた。
<取材協力>
トルコ航空:https://p.turkishairlines.com
<旅の情報>
パレスチナ自治区には死海西岸のヨルダン川西岸(ウェストバンク)と地中海沿岸のガザのふたつの地区がある。今回訪れたヨルダン川西岸地区は、比較的安定していて見所も多く、イスラエルから多くのツアーが出ている。ウェストバンクではガイドたちが常に連絡を取り合い、ツアー客の安全を確保しているそうだ。イスラエルとの行き来には検問所を通らなければならず、観光客でもパスポートの提示を求められることがある。今回の話は、観光を通じて平和構築を試みるツアー会社Green Oliveのツアーに個人的に参加した時の体験をベースにしたもの。http://www.toursinenglish.com
*この記事は、2017年に朝日新聞デジタル版&Travel「あの街の素顔」に掲載されたものです。